昭和46年07月02日 朝の御理解



  御理解 第70節
  「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 先ず、人間は万物の霊長であるという自覚を持たなければなりません。であるから天地の道理をわきまえ、天地の道理に即応した生き方。この辺の所が、いわば信心であります。只拝む事願う事が信心ではなくて、万物を見て道理に合うと云うものでなからなければなりません。道理に合う信心をせねばならんのであります。御理解七十節ですが、その七十節の前の六十九節の中に、その日その日のおかげを受けてゆけばとこう仰っておられるだからその日その日のおかげを受けて行くという事。
 その日その日のおかげを受けながら、道理に合う信心を進めて行かなければなりません。その日その日のおかげを受けて行かなければならん。それをその日その日を何か特別な、がっぱりとおかげを受けると言った様な事だけを考えて行く。いわば何というか、野心とでも申しましょうか、今日はお願いしとるけん、うんと商いがあるだろうと云うような事ではなくてです。
 問題がその日その日が立ち行くという事だけで、もう本当に有難いと分からせて貰う信心でなからにゃいかん。信心しよればそれこそ宝くじの当たるような、又願うような信心ではなくて、問題はその日その日が立ち行けばよいのである。その日その日が立ち行けばよい。それが何か信心しよれば今に何か良かこつがあるだろうと言った様な事ばかりではなくておかげを頂く。
 こうしてその日その日の間違いのないおかげを頂いていけば、この様にも間違いのない神様であるから。この信心が育ってさえ行けば、おかげが大きくなることは絶対として、心の底に、その信念をもって進むという事は、これは有難いですね。けれどもちょこっとばっかり信心して、何かがぱぁっとおかげを頂くことが信心のごと思うたり、そういう野心を持っての信心では、その日その日が立ち行きよっても、それがいつも物足らなぁい様に思うのです。そして丸きりおかげは頂きよらん様に思うのです。
 問題は間違いなく、その日その日が立ち行くおかげを頂いたら、例えばもう今日食べる物が今日だけしかなかった。ならばそれで良いじゃないか。今日は一家中の者がです腹も干さずに雨露を頂いて、今日を終らせて頂いたのでございますから有難いのである。もう心の底から有難い。そして又明日は明日の事である。それもほんにこげな貧乏ばっかり、いつまでせんならんだろうか。早く楽にならにゃと言った様な事ではない。
 楽というのは今私が申します。今日頂くものがあったという事だけでも有難いという心が楽なのである。今月の焦点である和楽というのは、そういう事だと思う。温泉にども入ってから、あぁ極楽と云いよるとが楽のごと思うてるそうじゃない。所謂それは楽は楽でしょうけれどもそれは和楽じゃない。自分の都合の良いことばっかりを取って、ある時には何とはなしに心が穏やかである。それは決して和ではない。
 厳しく言うならば、今日一日もう晩御飯を頂いたら、お米が無くなっておったと、明日食べる物はないという時でもです、その日その日が立ち行けばおかげである。私共二十何年前の、それを修行時代とでも申しましょうかね、大坪一家中が。その時なんか、それはちょいちょいでした。もう今夜炊いてしもうたら、これが最後ですと云う様な。もうそれこそ、今日頂けたと言う事。
 今日おかげを頂いたという事だけを御礼を申し上げていけば、明日は明日の風が吹こうとぞと。さ、今日は神様に御礼を申させて頂いて休ませて頂こう。これです。だから、それが楽なんです。それが、本当の和の楽です。心が一つも乱れておらん、崩れてはいない。それを和楽と言う。もう明日が不安でたまらん。ほんに家のお父さんが甲斐性が無いもんだから、いつまでも、こげん貧乏せんならん。
 そういう思い方は、もう本当に信心ではないのです。いわゆる、和楽じゃない。今月はそういうところを目指さなけりゃいかん。今月今日本当にとやこう今日と云う一日を過ごさせて頂けたということをです、心の底から御礼を申させて頂くと云う様な、その日その日のおかげを受けて行けばと仰る。立ち行こうが。ほんならそういうその日その日のおかげ受けながら、今度はその次の七十一節の中にありますよね。
 まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと。その日その日のおかげ頂きながら。その中から、信心の材料を見つけ出して信心しておかげを頂いていけと、信心の稽古をして行けという。そこんところを、分からんところは、教会にお参りをさせて貰い、御教えに接しさせて頂いて、御教えを頂かせて頂いて信心の稽古をして行く。どういう稽古をするかと云うと、万物の霊長としての値打ちを、いよいよ発揮できる事の為の稽古をするのです。七十節のその前の、その日その日のおかげを受けて行く。
 その次の七十節のそういう、その日その日のおかげを頂きながら、信心の稽古をしておけとこう言うのである。そんならどういう信心の稽古をするかと云うと、拝む稽古と言うのではなくて、万物の霊長としての値打ち、道理に合う信心をせよを稽古して行く。そこで、道理をあらゆる角度から頂かせて貰うて、おかげを頂いて行かなければならん。その日その日が立ち行く。だから、そういう信心が育って行くから、この信心を進めてさえおけば、おかげを受けられるという事になる訳です。
 昨日お月次祭の時時間を遅れて、日田の麻生さんがお参りになっておられました。控えで二人で色々話させて頂いたんですけども、ああいう様々な難儀の中にありまして、いわば億万長者でありす大体は。けどもやはり難儀ちゃあるもんですばい。もうそれこそのっぴきならんどうにも出来ない、矢張り難儀の中にあっておられたがです。先生此頃は非常に心が楽になりましたと。もう本当にそれはもう不思議で不思議でたまらん事は、日々がね、その日その日が立って行くと言う事だと言うておられます。
 ですからあくせくとした所で同じ、心配した所で同じ。それは心配が無いわけじゃないでしょうけれどもです、日々の事ですから。けれどもそれが非常に楽になったと。そして心の中に繰り返させて頂く事は、御理解百節でございますと云うておられます。めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのだと。必ずこういうおかげが頂けれる。
 こういう例えば難儀の真っ最中、実を云うたらここに御神縁を頂く時まではね、そういう難儀というものは全然感じなかった。所がお参りする様になり天地の御恩徳が少し分かる様になり、天地の道理が分からせて頂く様になったら、それこそまるきり突発的の様に起きてきたのが現在の難儀だと言うておられます。考えて見ると信心がなかってもです、矢張りこの難儀は起ってくる事になっとったでしょうけれども、信心がなかってこの難儀を受けたら、どういう事になっておったであろうかと云うておられます。
 神様は丁度良い時期に、まあ御神縁を頂いたものだと。そして最近はです、それこそめでたいめでたいと言うような心、しかも枝も栄える葉も茂る。そういう道を教えて頂いておる。どういう中にあっても、先生の祈りの中にある証拠に、その日その日が立って行っておるということをです、心安らぐ心の一日を過ごさして頂いておると、こう云うておられます。いわゆるその日その日が立っておる。
 しかも自分だけではない。子孫繁盛家繁盛の土台が今こそ出来ておる。金光大神が教えて下さることの道を行じてさえして行く限り、必ずめでたいめでたい若松様よ枝も栄える葉も茂るという事になると言う事をです、確信させて頂いて何か心が楽しゅうなったと云うとられる。もう麻生さんそれですよ信心の有難いのは。始めはどうにも出来ん事が、一遍にガパーッとおかげ頂く事の様に思うとった事がそうじゃない。
 その日その日が立ち行くと言うことが有難いと言う事。それでも不思議で不思議でたまらん程しの、いわば立ち行き方にです、神様のおかげを頂き、親先生の祈りの圏内にあっておるという事を痛感せずにはおれないと云うておられる。先ず第一その日その日が立ち行っておると云うこと。お願いをしおかげを頂いて、その日その日が立ち行くと言うのに先ず万空の喜びというか、感謝を捧げなければなりません。
 こげな中にどうして喜ばれるか、明日は食べる物がないじゃないか。それは信心のない者の云う事である。いわゆる和楽を身に付けていく者の姿と云うものはです、そういう中にあって今日が立ち行ったと、その日その日のおかげを受けて行けておると言う事を、先ず心の底から有難いと分からせて頂く信心。そしてそういう中に、ここに参って信心の稽古をしておくと言う事。
 その信心の稽古とは、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をして行くのであり、稽古をさせて頂くという事であります。決して金光様の御信心はね、見易う信心をするがよいぞと仰っておられる、決して難しい事じゃない。例えば仙人道と云うのがあります。今でもあるのです。もうそりゃ麻生さんなんかはその仙人道、仙人の学問修行やらもなさっておった。
 それで今私に一日逆立ちしておけとか、何十日間断食をせろといった修行なら、楽ですけれどもねと言うておられます。仙人の修行にはそんな修行があるそうです。ですから、そげな修行なら、先生も楽なんですけどもね。けども実際問題、日々生きて行くと言う事の上に起きてくる修行は、それこそ生身にかんなをかけられる様な思いがすることがあると云うのである。
 けれどもそれとても、その日その日が立ち行っている所から心が安らいで来た。然しこのまま信心の稽古をしていきゃ、先生昨日言った三年後には楽になるごたる感じが致しますと云うとられる。三年後ちゅうこつがいろかい、あーた、一年後でん半年後でも、まあしっかり信心させて頂かねばいけませんと云うてお話した事です。だから金光教の御信心がね、さあ断食ばせんならんとかね、それこそ難しい火の行、水の行的であったなら、それは苦しい事であろう。
 それは難儀なことであろう。けれどもね、それが楽しゅう出来るなら、しちゃいけんというのではないですよ。それが、いよいよ有難くならせて頂くことの為の表行なら良いですよ。けども決して、金光大神の道はです、人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心であり、同時に、又修行でなからなければならんのです。例えば仙人の様な修行をさせて頂いて、まあ不思議な力を頂いたと致しましてもです。
 それこそ久米の仙人ではないですけども。女の人が川で洗い物をしておった。それがなかなかエロチックに見えたんでしょう。途端に仙術が消えてしまって、真逆様に下界に落ちたと云う話があります。仙人道とはそういうものなんです。だから仙人道でなからなければ、せん様な修行をするといったような事は、だからあれはいうならば邪道です。その代わり食べる物も食べん。それこそ木の実茅の実です食べるものは。
 麻生さんの仙人の師匠と云うのが、どこか大分県の山奥におるそうですね。それが日田辺に、時々出て来るけれども、ほんのこのくらいばっかりのおにぎりいっちょしか持って来んのです。それももう真っ黒い麦のご飯だそうです。それで結構、やっぱそういう稽古をされるわけですね。それこそ雲や霞を吸うたり食べたりしながら、木の実茅の実食べてから、そういう難しい修行をする。所謂不思議な力に憧れるのですね。
 金光様の御信心でも不思議なね、不思議な力それは本当に不思議で不思議で堪らない事は、私どもは日々不思議で不思議でたまらんでしょう。けどもその不思議とは不思議が違う、私が不思議と言うておるのは。それこそねその日その日が立ち行くという事の不思議さ。それをもう今日頂くものは、一家中のものが頂いたら、今日はもうひとかすりの米もないと言う所にです、さぁその日その日が立ち行った。
 今日もおかげ頂いたと御礼の申し上げれる心。そこから生まれてくるところの不思議な働き、あくる日はちゃんとおかげを頂く。あくる日はまたちゃんと子供達がお弁当持って行かなければならんならお弁当持っていく御飯があったり、お米がおかげ頂いておる。さあ今日は足らんけん、あっちからいっちょ借ってきとけと云うことは決してない。そういう不思議なんです、私共が頂くのは。
 成程、神様が生かさにゃおかんという働きを身に感ずるから有難いのであると同時に不思議なのです。その先にです所謂神様との交流。是も昨日高橋さんと話した事ですけども。どげん考えたっちゃ高橋さん、不思議で不思議でたまらんと云うて。昨日四時の御祈念に頂いたお話を、高橋さんにさせて頂いて私はどう言う所からこう言う事になってくるじゃろうかと思うて、不思議で不思議でたまらんがのと云うて話したことです。
 だからね不思議な力と云うのは、そういうその日その日が立ち行く。今日一日立ち行ったという事の中に、不思議を感じさせてもらえれる。そしてそのまた翌日に生かさにゃおかん働きに触れさせて頂く所にです。不思議で不思議でたまらん、いわば神様の御守護の中にある事を実感させて頂くと言う事が先ず先決である。まず和楽のおかげを頂くことである。そして人間は万物の霊長であるところの信心修行。
 逆立ちしたり断食したりといった様な修行ではなくて、それこそ当たり前のことだ、人間としての。食物は食べるする事はする。私は本当に今日はねそこの所のお知らせを頂いてから、金光様の信心の素晴らしいと云うのはね、仙人が行う様な修行ではなくて、それは例えば今も申します様に、ちょっと女の色気に触れただけで転落してしまわなければならないと云うのがいわば、そういう仙人のする様な修行なのです。
 私どもはそうじゃない。人間ですから、矢張り綺麗なものを見れば、綺麗だなぁと思い、美味しいものを食べれば美味しいなと思う。日常生活を有難くさせて頂きながら、適当にそこにはです、例えば恋愛の相手が出来たならば、恋愛もまた有難いのである。これは恋愛どんしよるなら、もう一辺に地獄の中に落ちてしまわんならんと云った事じゃ決してない、金光様のご信心の道と言うのは。
 それが万物の霊長としての、万物の霊長と云うのは、仙人の様になると云う事では決してない。それこそ、人間としての当たり前のことがです、有難く有りのままに、それを頂いていくと云うこと。云うならば御の字をつけて頂いて行くということ。綺麗な美人を見てからあー綺麗だなと言うたら、もう女を犯したのと同じだとキリストは言ってますけれども。金光教の信心は、そんなこっじゃ決してない。
 それが私は、人間のいわば、させて頂く信心、万物の霊長としての値打ちのある人間か本当に幸せになっていくことの為の信心であるということをです。一つ分かって頂きたいと今日は思うのです。道理にあってるでしょうが。女を見てから例えば、あぁよか女じゃなぁと思うたら、もうそれは相手を犯したと同じ事だと云うて、もう犯した罪におののかなければならないと云った様な信心じゃないということ。
 こんなものは食べちゃいかん、こんなものは飲んじゃいかんと。例えば仏教で言うなら、生臭きは取っちゃいかん。キリスト教で言うなら、お酒は飲んじゃいかん。もし飲んでみたら、もう自分は破戒をしたと云うような苦しみにさいなまれなまれなければならんものではない。お酒も適当に頂くが良かろう。肉食もいわば適当に。大酒大食にならない、いわば有難い有難い、美味しい美味しいと言うて頂けれる程度に頂いたらおかげである。いやむしろ、それが人間万物の霊長としての生き方なのだ。
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心とはそういう事。それを自分から難しうする様なことがあってはならぬ。為に、一つ本気で、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうがと云う、その日その日のおかげを受けておる。どれだけ山の様に借金を持っておってもかんまん。その日その日が立ち行けば。もう今日食べる物があって、明日食べる物がなかっても有難い。
 その日その日が立ち行く。その事自体にです有難いと感じ、それが立ち行く事にもう大変な、いわば不思議を感じさせて頂く程にお道の信心、そういう信心を此処に参って信心の稽古をしておけと言うのである。万物を見て道理に合う信心、そういう信心の稽古をさせて頂く所からです。麻生さんじゃないけれども、御理解百節を、心の中に思わせて頂け、本当に楽になっただけでなく楽しくなってきた。
 これはもう野心とか野望じゃない。こういう信心をさせて頂いておれば、この様に間違いのない働きの中にあるのであるから、自分の信心が成長して行くに従って、そういう信心になって行けれるんだと云う一つの夢が生まれてくる。勿論その夢に近づいていくというおかげを日々育てて行かなければならん。その為にはどうしても堂々巡りの信心さえして行けと云うことになります。
 ドライという言葉があります割り切る。割り切っただから金光様の御信心はね、割り切らなくても割切れていく信心なのです。それを例えば自分で割り切っていかなければ、先に進まれない様に。けども金光様の信心はね形の上で、いかにもドライに見えますね。割り切ったように見えます。けど割り切るというのじゃない。当たり前のことなんだ。当たり前のことが当たり前に、日々坦々としてなされて行く。
 その中から信心の稽古の材料を、頂かして貰うて稽古させて頂く。しかもその日その日が、立ち行くおかげを受けて行く。そのその日その日の立ち行くことの、いわば不思議さ、御神愛の深さを実感させて頂いて、まあ何と有難い事だなぁと実感させて頂く日々、そういう信心が育てられて行くところにです、現在の私がある。さあもう今日食べる物がないがどうするかといった様なことではなくて。
 それこそいつも何十俵かの米が、食料倉庫の中には積み上げてあってもう本当に私。昨日も休ませて頂く前に、まだ麻生さん達がおられましたですから、ブランデーを一杯頂きたいと云うたら、そのブランデーについてくるもの、もう私は驚きました。私はあんなものは初めて食べた。もう何とも云えん。そのブランデーならブランデーに適当に合うおつまみというですかね、そういうものがそのブランデーについてくる。
 成程神撰室まで行けば、そこの倉庫まで行けば、冷蔵庫を空ければ、そういうものがちゃんと入っておるということ。もうこげな不思議なことはなかと私は思うです。その前には、私がお茶を頂いた。今日は何もお茶菓子がありません。折角のよかお茶を頂いて、なかこつがあるもんの、何かあるくさ探してんのと云うたら、ちゃんと羊羹が出てきた。ですから、本当にその日その日が立ち行くことにです。
 有難い万空の喜びが分からせて頂く様になるとです。毎日毎日、その日暮し的なものからです、そうした豊かな、しかも優雅な生活でも、段々出来てくる様になると言うことは。私を見て下されば一番分かる訳です。為には、今月今日のその暮らしそのものがです、有難うして有難うしてたまらん。不思議で不思議でたまらんという信心を身に付けていかなければならん。
 そういう稽古をすると言う事が、人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をすると言う事になるのじゃないでしょうか。ほんならいっちょそげなおかげば頂かんならんからと言うて、逆立ちしたりそげなおかげ頂かんならんから断食したりと、実を云うたらこんな滑稽な話はありません。その日その日が立ち行く所のおかげそこから無限の神愛を悟らせて頂く信心。そういう信心を私は道理に合う信心だという風に思います。
   どうぞ。